藍色の空間

魂にメスはいらない

 誰もよりつくことのない、薄暗いうっそうと繁った木々の中、無言の、やる気を放棄しているのを雄弁に語っている沼がありました。

沼には魚などいません。

微小の生物すらいません。

その暗い沼の水底で、私はひたすら眠っていました。

二度と目覚めない決意で眠っていました。

ここから出たくないと思っており、そして誰もここによりつかないだろうという予測し、私は隠棲を約束されたこの場所で永遠に眠り、目をつむって、もう何もみないと固く心に決めていました。

ある日その沼地の淵にあの人が立っていました。

あの人は、私と同じく、沼地に入ることを決めてきました。

でも、水底に眠る私の肢体をみつけて、知らぬ間に自分の手を伸ばしました。

その手は沼の奥に沈む私の左胸にスルリと入り込み、私の奥深くにある、一番やわらかいところに触れました。

やわらいところのうぶ毛をさらりさらりと撫ではじめました。

あれほどに、もう目をつむったまま開けるまいと、決めていた私の眉間が、一瞬ピクリと反応しました。

眉間には、さらに皺が立ち、やがて、顔は苦渋に満ちてきました。

でも、苦しいのでありません。

変化を感じて、少し恐れて、でも、その手に激しく共感して、その手になじみ、焦がれ、すがり、もたれて、頬が紅潮しはじめました。

つむったままの目から、少しずつ、じわりじわりと、流れだすものがありました。

涙は止め処もなく溢れ、やがて嗚咽に変わっていました。

私の中で流れないまま死んでいた涙が止めどもなく溢れ出しました。

これ程に、自分が泣きたかったのだと、驚きながら涙を流しました。

私は、頑ななだった決意を忘れ、思わずに、目を、開きました。

淀んだ水面の上に暗い人影が見えました。

私の肢体は、左胸の手にすくいあげられるように水面にゆっくりとゆっくりと上昇していきました。

水面の台に横たわる私の肢体、あの人は、左胸の中のものを、手で包んで抱擁していました。

私はもう泣いていませんでした。

流されるべき涙は、流れきったのです。

でも、陽の光の下に出た時、私の目は何もみえなくなっていました。

あの人の姿も、まわりの風景も、光も、闇も。

ですが、私には全てが頭の中でみえました。

不思議なことに私の左胸から、泉がわいてきていました。

小さな音をたてて、左胸から湧き水があふれていました。

あの人は、私の左胸の湧き水の中で手を泳がせていました。

その時、あの人の左手を通して、あの人の悲しみが私の中に入ってきました。

この沼の淵にきて、私と同じように沈もうとしたあの人の悲しみが。

私は、唐突に息が荒くなり、体が発作をおこしました。

そして、最後の強い発作と同時、涙が流れ出しました。

ただただ、大量の涙。

私の顔は目をみひらいたまま、声はでず、涙だけが、大量にながれました。

それは、彼が流せなかった涙だと、私には分かりました。

彼の手はまだ私の左胸の中のものを掴んだままです。

やがて、その手は抱擁から、手荒く鷲づかみへと変わり、よもや私の泉の中をかき混ぜはじめました。

彼の激しい怒りが私の中に入り込んできました。

私は痛みに耐えて、彼のなすがままにまかせました。

やがて、私の肢体を、恥骨と仙骨の間、そう、まさに膣の奥から、脳髄までを

つらぬく激しい感覚が走りました。

オーガズム

私は、小さく「う・・・」と声をこぼしたかもしれません。

ただ、しばらく、私は、体をつらぬいたその鋭敏な感覚とその瞬間の中で、放心状態におりました。

同時にあの人の頬につうっと流れるものがありました。

あの人が流すべき涙が、ようやく流れたのです。

ですが、その瞬間、2人の体は、石化していました。

石化した体から、新しい私が出でてきました。

新しい私は、よもや迷いませんでした。

行くべきところ、おこなうべきことが、わかったのですから。

新しい私は、後ろを振り返りませんでした。

沼地をぬけて、ただただ、ゆくべき道を歩きはじめました。

新しい私は、左胸の泉を抱えて、歩いてゆくのです。

この左胸の泉を求めている人たちの元へ・・・。

あの人がそれからどうなったのか、私には分かりません。

新しいあの人はどういう道のりにつこうとしているのは、それは新しい私が知るべきことではないのですから。

ただ、もう、あの沼地の淵に来ることはないでしょう。

そして、永遠にあの人の悲しみは私の泉に存在します。

それは永遠に泉の源になり、あの人への愛として抱きしめていくのです。