藍色の空間

魂にメスはいらない

『マンガユング「心の深層」の構造』

 河合隼雄先生の本を読むとき、やはりユングの分析心理学のことは通らないではいられない。

が、しかしいきなりユングの著書を読んでも、専門家ではないのでそう簡単には理解できない。

当著書は、ユングの生涯を漫画で描きつつも、ユング心理学を分かりやすくふんだんに取り込むことに成功していると思う。

章ごとに設けられたコラムでは、歴史とユング心理学の発祥の背景から始まり、専門用語の解説までされていて、ユング心理学をより自分に引き寄せることができた。

漫画と思って侮ることなかれ。なかなかの名著と私は思う。

 

 

『魂にメスはいらない』

つまずくこともある。病むこともある。自分の内にありながら、どこかとらえどころのない人間の心。“魂の医者”カール・グスタフユングがひもといた人間心理の謎を、日本を代表する“こころの専門家”と“こころの表現者”が、深い独自のまなざしでたどり、見つめなおす。生を掘りさげ、夢を分析し、死を問いなおす2人の言葉のなかに、これまで気づかなかった「自分」が見えてくる、魂の根源に語りかける名講義録。(Amazonより)

 

河合隼雄先生と詩人谷川俊太郎氏との対談形式による名著。

ユングの心理学の専門用語もたびたび出てくるので、予備知識が少しあった方が読みやすいかもしれないが、それがなくとも河合先生の言葉の数々に新たな発見と勇気とをもらえた。

付箋をつけた個所を記しておく。

P56 人の中核にある死への恐怖というものの治療は不可能なのではないか、と問われて。

そんなのは治ることはないでしょう。だからそれを治すなどということはなく、いかに抱きしめていくかということになります。こっちだって何も解決してるわけじゃないですから、死の恐怖というものを自分の心の中にどのようにおさめるかでしょう。

むしろそれが人生の輝きの根本みたいに思いますし、言うなればそれを謳いあげることにその人の人生があるんですから。

P84 普通の人間の自己治癒力について

普通は、それが適当にうまく働いているわけです。だから深く悩むこともなく深く治ることもなく、みんな生きているわけでしょう。いわば普通の人間は自分で自分なりの治療行為をしているわけですね。つまりすってんてんになるまでパチンコをするとか、途方もない大金を競馬で使ったりするとか、それなりにみんな治るための儀式をやっているんですね。 

P117 「規格を超えたコミュニケーション」について聞かれて

しかし、それぐらいばかげたこを考えてみるファイトがなかったら、人間は変わらないですよ。そういうばかげたこを色々考えて、重なってくるものを言語化し、重ならないものは捨てていくわけです。そのときに、一つのことだけに固執すると、ほかにいろいろおもしろいことがあっても見れないですね。フロイトが言った「フリー・フローティング・アテンション 平等に漂える注意力」を持ってみていないとだめなんです。

 P244 エモーショナル・インテグレーションについて

感情の中にはいま言われたように相反したものがある。それが全体として統合されていくことをエモーショナル・インテグレーションと言うんですが、これができている人は強いし安定感があるんです。ところがエモーショナル・インテグレーションが行われようとする過程で、失敗することが多い。なぜかというと、みんなネガティブな感情を抑えようとしすぎるんです。特に母親とか学校の先生とかがそうです。(中略)僕はそういうネガティブな感情もあるものはあるとして率直に受け入れる方が、全体としてのインテグレーションがうまくいくんじゃないかと思っているんです。だからネガティブなものもポジティブなものも同時に働かせながら、どう全体として統合するかが問題なんじゃないんでしょうか。

P265 自我の統合について

われわれのいまの社会にある統合というのは、自我による統合でしょう。それをさらに深めた次元の統合への動きが背後にないといけない。ところが実際には自我の次元でのみ破壊が行われているために、いたずらに破壊のための破壊を標榜するいわゆる前衛芸術に接すると不安を押し売りされたような感じになって、むしろ昔のほうがよかったということになっているような感じがしますね。 

P299 自分がどのようなタイプであるとか自覚していたほうが、生きやすいか?と問われて

生きやすいというより、そのほうがおもしろいですね。それと、自分と違うタイプの人をきらいになることからずいぶん救われるんじゃないでしょうか。

 

 

魂にメスはいらない ユング心理学講義 (講談社+α文庫)

魂にメスはいらない ユング心理学講義 (講談社+α文庫)

 

 

エンブレムは私を救うか

「トロフィーワイフ」という言葉があるが。

成功した男性が“勝ち組”であることの証のように側に抱く、若くて美貌に恵まれた妻のことをいう。

その「トロフィーワイフ」でもないのだけれども、誰しも「エンブレム」を欲しているのではと今朝方思いついた。

いや、「誰しも」という言い方は止めようと思う。

一般論的な言い回しをすることで大衆向けの意見を書くことがこのブログの目的ではない。

あくまで私個人の物語を紡ぎ出すためだけに執着して書き続けたい。

 

昨日、友人と話をしていた時に、友人は「(自分には)何かが足りない」と言った。

私だってそうだ。いつも「何か」が足りない。

友人との会話が終わった後も、必死になって考えていたわけではないが、そのことが脳裏から離れなくて何とはなく思い浮かべているうちに浮かんだ言葉が「エンブレム」だった。

それは自分が何者かであるというような「肩書き」だけにとどまらず、栄誉を与えられた「勲章のようなもの」。

私は見栄の心が強いのか?

これが承認要求というものなのか?

だとするならば、先ほどは使わないと言い切った「誰しも」に当てはまることではなかろうか?

 

しかし本当にそのような承認要求を満たした「エンブレム」は私を救うのか?

或いは言い方を変えて、私を救う「エンブレム」とはどのようなものか?

答えはもちろん分からない。

分からないが、疑問形として胸に残し続けたい。

気づくためには「時」が必要

最初の記事で「気づき」を得たい、というようなことを書いたけれども、それはいつでも得れるものとは思っていない。

とあるきっかけで、本棚をひっくり返し、昔読んだ河合隼雄先生の本を手に取ったが、以前に読んだ時にはなんとも思わなかったことがグイグイと心に響いた。

それは決して以前より頭が良くなったとかではなく(むしろどんどん退化してるはず)、「時」なのだと思う。

こう書いてしまうととても良いことを自力で得たように思われてしまいそうだが、これも何かの本で読んだことなのだ。

本に限らず音楽でも映画でも、「時」で感じ方が違ってくる経験は良くあることだ。

それは単に趣向が変わったとか、老いたとかだけではなく、「時」が関係していると私は思う。

何事にしても「時」というのが大きく作用するであろうし、肝心なことが多いだろう。

しかしそう言いながらも、私はそう度々「時」を得れるとも思ってはおらず。

意識せずに忍耐強く待つことも肝心と近頃は感じている。

そして諦めない人には必ず「時」がやってくるものと私は信じている。

 

 

 

それを生きてみる

 当ブログの説明文に用いている「魂にメスはいらない」は故河合隼雄先生の著作のタイトルである。

たくさんは読んでいないが、河合隼雄先生の本には何度となく「気づき」を与えられてきた。

掲題の「それを生きてみる」はその河合隼雄先生が割と頻繁に口にされている言葉らしい。

らしい、というのはある本にそれが書かれていたからである。

石井ゆかりさんの『「美人」の条件』というエッセイである。

毎回お題を元にして書かれている中で、「どろぬまの恋」という題目で書かれた中で、河合隼雄先生の「それを生きてみる」を引用されて書かれていた。

たぶん、そうした恋は、もうどうしようもなく「その恋を徹底的に生きてみる」ことでしか、解決できないのかもしれない。心理学者の河合隼雄氏はその著作の中でしばしば、「それを生きてみる」という言葉を使う。どろぬまの恋をしている人は「これは正しい状態ではない、本当の人生ではない」という感覚を持っているが、そのどろぬまも、まさにその人の生きている人生の一部なのだ。「それを生きてみる」ところから、「その先」が見つかる。そして、それを「生きる」ことは、正解を知るとか、魔法での解決法を探すとか、そういうこととは全く別のことだ。自分で、まさに「生きてみる」しかないし、万人に当てはまる正解などはない。

 

私は自分のこれまでの歩みを思う時、なんとコスパの悪い人生か、と度々落ち込むことがある。

が、これも私なのだ、と近頃は思えるようになってきた。

そこで浮かぶのが河合隼雄先生の「それを生きてみる」という言葉である。

私は特別どろぬまの恋をしているわけではないが、それでも自分自身の性(さが)を追いかけたり、苦しめられたりしながら生き延びていきたいたいと思う。

再度明言する。

私は自死することなくなんとか生き延びたいのだ。

そのためにこのブログを書いているし、これからも「本当に自分が思う言葉」だけで綴っていきたい。

 

 

「美人」の条件

「美人」の条件